どうも、西祖です。
HQ-MIND始めていきます。
今回は「自分の器を知る方法」というテーマで話をしていきます。
器っていうのは、「器の大きな人間」とか「器のちっちゃな人間」とかの器になります。
誰しも自分のことを、器のちっちゃな人間なんて思いたくないと思うんですよね。
できれば器の大きな人間でありたいって思うだろうし、心のどこかで「自分の器って大したことないんじゃないか」「実は器がちっちゃな人間なんじゃないか」って思ってたとしても、認めたくないと思うんですよね。
まだ本気を出してないだけ。ちゃんと自分の能力・才能を発揮すれば、器の大きな人間に、何かを成し得る人間になれるんだってやっぱり思いたいと思うんですよ。
で、今回はそれを明確に知ることができるという、ある意味残酷な現実を突きつけるような話になると思います。
ただ最初に言っておきたいのが、あくまで「今現時点での器の大きさ」ということなので、未来永劫こうですよとか、あなた人間性そのものがこうですよ、などという話をしたいわけではありません。
なので、今回の話を聞いて「ちょっとこれは耳が痛いな」っていう思いをするんであれば、これから変えていけばいいだけだと思います。
ということで、恐れずに最後まで聞いてもらえたらなと思います。
今回は最初に結論を言うことを敢えてせずに、このまま話し始めようと思います。
話を聞いてもらえたら、すぐに「そういうことか」って分かってもらえると思うので。
まず話したいのが、例えば学生時代。
小学校でも中学校でも高校でもいいですけど、いじめられてる人って見たことあります?
僕はあるんですけど、いじめられている人がいて、いじめている人がいて、そのいじめてる主犯の周りに取り巻きみたいなものがいて一緒にいじめに加担している。
直接的にいじめてはいないんだけど、いじめられてる子を見てクスクスと笑ってる人間もいれば、何も見なかったことにして、無視を決め込んでいる人間もいればっていう光景を見たことありますか?
よく見聞きする光景だと思うんですよね。
僕自身どこかで話したことがあると思うんですけど、高校の時にいまだに「あれはいじめだったのかな?」ってちょっと疑問なんですけど、高校一年生ぐらいの時に同じクラスのちょっとヤンキーっぽいやつに目をつけられて、集中攻撃されてた時期があるんですよね。
僕は一人一生懸命戦ってはいたつもりだったんですけど・・・ちょっとこの話はまた今度詳しくしようかな。
その時、誰も味方がいなかったんですよね。
周りのクラスメイトはやっぱりクスクスと笑ってるやつがいたり、何も起こっていないかのように、何も見えていないかのように、無視を決め込んでいたりとかっていうやつばかりだったんですよね。
だから、見る人が見たら集中的に攻撃されているので、いじめられているように見えていたかもしれないですよね。
分かんないですけど、僕自身身をもって経験したことでもあります。
そういう光景が世の中にはある。これって子供の話だけではなくて、社会でも同じようにいじめの光景ってあるじゃないですか。
例えば、会社の中で仕事ができない社員がいたとしましょう。
周りからの風当たりが強くて、要領が悪いし、物忘れもひどいし、仕事はできない、ミスをする、トラブルを起こす、上司にいつもこっぴどく叱られている。
それを見てくクスクスと笑ってる社員もいれば、「またあいつ叱られてるよ」「恥ずかしくないのかな」「悔しくないのかな」「給料泥棒じゃん」って陰口を叩いている人間もいたりして。
これも立派ないじめだと思うんですよね。
学生のいじめと構造的には何ら変わらないということです。
インターネットの世界では、SNSのコメント欄がかなり顕著だと思います。
ちょっと炎上しかけている動画コンテンツに対して、炎上を煽る人がいたり、わざわざ炎上しているところに面白がって見に来る人がいたり、酷い誹謗中傷を浴びせる人がいたり。
直接的な攻撃ではなくて、正義感なのかどうか分からないけど、正論を振りかざして論破しようとする人がいたりとか、まるで自分に公共性があるかのように振る舞って、それで気持ち良くなってるような人がいたりとか。
こういうのも僕は一種のいじめだと思うんですよね。
ここでいじめっていうのが、一つキーワードになるんですけど、いじめの体質ってみんなに備わっているものなんですよ。
人間に備わってる本能の一部なんですよね。
どういうことかって言うと、人間には自己重要感というものがあって、「自分は優れている人間なんだ」「価値がある人間なんだ」ってことを自分で認めたい、人に認めさせたいっていう本能的欲求があるんですよね。
それは「こいつよりも優秀だ」と優劣を付けたがるっていう欲求と繋がっているし、人を攻撃して負かすことによって「どうだ。俺の方が優れてるんだ」っていうのを実感したいっていう生き物なんですよね。
なので、大なり小なりいじめ感覚が、根差しているのが僕ら人間だっていうことです。
で、ここからの話が重要になってくるんですけど、いじめ感覚は本能的なものなので、ゼロの人ってやっぱりいないんですよね。
いないんですが、限りなくゼロに近い人はいて、一方で限りなく100に近い世界で生きてる人がいて、要するに常態的にいじめに加担してる人間がいるんですよね。
例えば、会社で仕事ができない、同僚を見ていつも陰でクスクス笑ってる、たまに自分で「お前こんなこともできねえのか」って言って追い詰めたりとか、上司にこっぴどく叱られてる姿を見てほくそ笑んでいたりとか。
家に帰ったら帰ったで、SNSのコメント欄を徘徊して炎上してそうなコンテンツに行って、そこで誹謗中傷を書き込んだりとか、炎上を煽ったりとか、あるいは正義と正論を振りかざしてマウンティングしたりとか、みたいなことが常態化している人間がいて、それに対して幸せを感じているということです。
ここでもう一個キーワードが出てきました。
「幸せ」っていうことですね。
要は何が言いたいかって言うと、「どんな時に幸せを感じるか?」が、その人の器の大きさを決めているということです。
人をいじめてる時に、いじめに加担している時に、より強い幸せを感じている人は器がちっちゃいんです。
人間としての器が本当にちっちゃいです。
その人が、どんなに仕事ができる人間だったとしても、どんなにお金を稼いでいたとしても、高給取りだったとしても、どんなに友達がたくさんいたとしても、家庭を持って子供もいて表面上幸せな生活を送っていたとしても、いじめに常態的に加担していて、それに関わることによって幸せを感じるのが、日常になっている人間は器がちっちゃいです。
僕は自分のことを器の大きな人間なんて思ってないですけど、どんな時に幸せを感じるかって言われたら、いじめに加担している時に幸せを感じるとは思わないです。
少なくとも自分は、そういう世界には生きていないと思ってます。
僕はもっと有意義な時間の使い方を普段からしているし、いじめに加担することで幸せを感じてるような人達を見て、「もっと他にないのかな」と思います。
もっと他に幸せを感じられるような有意義な時間の使い方があるはずなのに、そういうものを差し置いてせっせと人の不幸を楽しむことに優先的に時間を使っているわけですよ。
そういう人々を見て「あーあ。こいつら器がちっちゃいな」って思うんですね。
いじめって一括りにしてますけど、例えば愚痴とかもそうですね。
人の悪口を言ったり、誰かの愚痴を言ったり、会社の愚痴を言ったり、社会の愚痴を言ったりすることで、ストレスを発散する。
つまり、そこに幸せを見出そうとしている人たちも、やっぱり同じようにちっちゃな世界で生きている。
つまり、器がちっちゃいんですね。
ということで、最後に改めて質問をしたいと思います。
あなたはどんな時に幸せを感じるでしょうか?
どんな幸せの感じ方をして、日々を過ごしているでしょうか?
どんな幸せの感じ方に、自分の人生の大半の時間を費やしているでしょうか?
これをちょっと考えてみてください。
もしかすると、残酷な現実を目の当たりにするかもしれないですけど、それは必要な作業だと思って、素直に受け止めて、今この瞬間から変えていく努力をしたらいいんじゃないかなと思います。
今日この話を聞いたことによって、素直になった人から何かが変わっていくはずなので、いいチャンスなんじゃないかなと思います。
こんなことを偉そうに話している僕も、やっぱり気を抜いたらいじめに加担しているなと思うことはあるので、より一層もっと有意義な幸せの感じ方に、人生という時間を使いたいなという風に思う次第です。
この「いじめ」というテーマは結構重要です。
もっと深く掘り下げていくことによって、色んな気づきを得られるかなり重要なテーマなので、続きはHQ-MIND Proの方でガッツリ話していきたいと思います。
現在Free版のみをお楽しみの方は、是非Pro版の入会を検討してみてください。
では、今日は終わりになります。
ありがとうございました。