どうも、西祖です。
HQ-MiND 始めていきます。
今回は「可処分時間を制する者の条件」という話をしたいと思います。
タイトルを聞いただけでは何のことかわからないと思うんですけど、最近僕が話していることは、情報発信者の立場に立って話すことが多いです。
例えば、知人の起業家のセミナーの講師をお願いされたりとかして、そこで話したことでもあったりするんですけど、発信者として今課題となっていることとして「可処分時間をいかに制するか」っていうことがかなり課題になってます。
可処分時間っていうのは、人々が自由に使える時間のことですね。
それをいかに制するかが、情報発信者としてかなり課題になっているということです。
処分所得という言葉もあります。
人が自由に使えるお金の事。これも課題なんですけど、それよりも可処分時間ですね。
もう今は情報が溢れすぎていて、メディアが多すぎて人一人の発信なんかにはなかなか耳を傾けてもらえないという現状があって、ただその中で情報発信者としてなんらかの成功をしていきたいと思う人も増えている中で、何とかそこを攻略していきたいわけですよね。
そのための考え方として、僕は3つの側面というものを前面に出していく必要があるという風に言ってます。
この3つの側面をバランスよく適切に出していくからこそ、人々は耳を傾けてくれるわけであって、逆に言うとこれを出せていないから、その他大勢の発信者として埋もれてしまうということになるんですね。
その3つの側面とは何かっていうと、1つ目が超人的・変態的側面。
人は超人的な部分とか変態的な部分とかにすごく快感を覚えると言うか、面白いなって感じるんですよね。
一言で言うと、エンタメがそこにあるわけですね。
そもそも面白いって思われないと人は見向きもしてくれないわけですから。
じゃあ、どうやって「面白い」を表現するのかって言うと、それが超人的変態的側面というわけです。
これをいかに表現していくかですね。
2番目の条件としては、人間的・常識的側面という部分ですね。
どんなに超人的・変態的で面白いやつがいるなーってなったとしても、それだけではただのエンタメにしかならないんですね。
面白いなと思ってもらえるけど、好きにはなってもらえないというか。
やっぱり人は人間味とか、人間臭さとか、泥臭い部分に、人としての魅力を感じる。人として好きになっていくわけですから。
あるいは、常識的な側面を見て安心するわけですから。そこに信頼を置くわけですから。
ここはすごく重要です。
で、3つ目は機能的・実用的側面。
教育的な情報を発信者に必ず必要な素養なんですけど、役に立つ話をしないと話にならないわけですね。
お金も取れないしね。
自分が得意とする専門とする分野でどれだけ役に立てる話ができるか。どれだけ機能的・実用的な話ができるかっていうことですね。
これが屋台骨になってきます。
人は結局ここにお金を払うわけですから。
「人としても存在としても大好きな〇〇さんが提供する〇〇についてのメソッドだから欲しい」ってなるわけです。
「だから、〇〇さんの情報にはいつも注目してるし、いつも目を通す」・・・となるわけですね。
ここまでは最近いろんなところで話してるんですけど、じゃあどうやってその3つの側面を見出していくのか。
いかにして表現していくのかっていうところが難しいところかなと思うんですけど、かなり大きなヒントが1個あります。
それは何かって言うと、この質問を自分に投げかけてみてください。
「自分が一般の感覚とズレてるなって感じるのはどんなところですか?」
という質問です。
先日HQ-MIND Proの方でお話ししたテーマの1つでもあるんですが、僕がちょっと一般の人とは少し違うなと。少数派だなって思う感覚の中で「投資感覚」というものがあります。
例えば、手元に今100万円があるとしたら、その100万円を僕は100万円だと思わないんですよ。
これをいかに投資するかによって、200万円だったり300万円だったり1000 万円だったり1億になったりするわけですね。
と言っても、僕は普通の投資はしないですけど、僕はもっぱら自己投資の専門家なので、中でも知識にはそこそこ投資をしてるほうだと思います。
これまで知識に投資をすることにあくまで感覚ですけど、100万円を例えば情報にお金を使ったとそしたら、それがこの10数年でいくらになって返って来たかったこと考えると、数十倍・数百倍の世界なんですよ。
そういうこともあって、僕は手元にある100万円を、ただの100万円だと思わない。
この辺の感覚は他の人と違うんだろうなってことが1個わかってる。
それをこないだPro版の方でシェアしたんですけど、他にもいっぱいあります。
「一般の人とこういうとか違うな。これとか自分ズレてるな。これはかなり少数派だな」と思う所って結構色々あるんですね。
それをいくつか紹介しようかなと思うんですけど、あなたも考えてくださいね。
ここでの答えが影響力になるんで。お金になるんで。真剣に考えてみて欲しいんですよ。
僕で言うと我慢が苦手。我慢するのがめちゃくちゃ苦手です。
昨日、息子とちょうどそういう話をしてたんですけど、僕も息子も世間一般で言われるADHDという人種なんです。
ADHDの特徴に綺麗に当てはまってるのが、僕や息子です。
そして、息子は僕の上位互換と言って良いくらい、かなり当てはまってます。
その中で「我慢が苦手」というのが特徴としてあるんですけど、僕はかなり我慢が苦手です。
我慢することがストレスで仕方がないんですよ。
欲しいと思うものがあると、それを手に入れないと気が済まないんですね。ずっとストレスなんですね。
だから、我慢しなくてもいいように努力をしてこれたっていうのがあるんです。
本当にそれこそ昨日、息子とそういう話をしてましたよ。
「お前我慢するのが苦手だろ。それって悪いことのように言われるんだけど、何で我慢しなくちゃいけないのかって言うと、使えるお金には限りがあるから、使える時間には限りがあるから、環境が制限されるから。
ということは、その制限を変えることができれば、別に我慢しなくていいじゃないかと。
お金がないから我慢しなきゃいけないんだったら、お金を稼げばいいし、時間もそうだし環境も変えればいいし。
もちろん、人に迷惑をかけてはいけないっていうことが大前提なんだけど、その範囲の中で努力ができるじゃない」・・・って話を昨日していたんですけど、僕自身そうやって努力してこられた人間の1人ですね。
で、2つ目ですね。これ言いたくないんだけど「性欲が強い」ってことですね。
最近女性の読者が増えてきてるんで、あまりこういうことを言いたくないんだけど、強いっていうか今言ったように我慢が苦手っていうのがあるので、我慢しないんですよ。
我慢しなかったら男だったら、誰でも性欲強いだろうと思うんだけど、みんな我慢し慣れてるから性欲すら抑えてるのかなってのが僕の意見だったりします。
そして、僕は我慢しないための努力をすることが得意なので、歳をとっても十分性欲の強さに体がついていくような肉体作り・能力向上・環境設定ができるようになってるので、我慢する必要がないんですよね。
だから性欲の強さで言うと、たぶん世間一般の男性と変わらないと思うんだけど、リミッターを外してるって意味で強いのかなと。
3つ目。涙もろい。涙もろすぎるんですね。
この感覚って息子もかなり引き継いでいて、すぐに感動して泣くんですよね。
特に犬のことになると、すぐ涙をポロポロ流してます。
映画館とかでも感動的な場面だと、我慢するのが苦手なので、遠慮なく普通にポロポロ泣いてたりします。
あと、これはどう表現していいか分かんなかったんだけど、サイコパスな一面もあるのかなあなんて思ってて、よく僕が言われるのは「情が深い」っていう評価はよく受けます。
良くも悪くもだと思うんですけど、「悪くも」というのは経営者にはあまり向かないと自分で思ってます。
例えば、会社を大きくして何十人何百人社員を雇う会社って、社員の給料って決まってるじゃないですか。
例えば、社員さんの家族に何か不幸があって、すごく大変な状況になっている場合でも、「給料上げるから」とか「特別ボーナス支給するから」とはならないんですよね。
それが会社の文化として当たり前になっちゃうと、どこかで破綻するんですよ。
人数が増えれば増えるほど事業が大きくなればなるほど、そういう要素って増えていくわけだからね。
だから、そこで情を働かせてはいけないわけですけど、僕はそれはできないから経営者とかには元々向かないのかなって自分では思っているんだけど、ただ一人の人間として、個人の評価としては悪くない反応はもらえますよ。
「情が深くて良い方ですね」って言われる事もあるんだけど、ちょっとサイコパスかもと思うこともあります。
例えば、「こいつもうどうでもいいや」と思うと本当にどうでもよくなるんですよ。
そいつが野垂れ死のうがどうなろうが、どうでもよくなる。
岡田斗司夫さんが同じような事を言ってたんですけど、多分同じだなと思って。
その人に対する「情の燃料」みたいなものがあるとすると、それが完全にゼロになった瞬間マジでどうでもよくなるんですよね。
これが普通なのかどうなのか僕は分からないです。
だけど、周りを見ていても、少数派なのかなっていう気がしてます。
もしかすると「それ普通だよ」って言われるかもしれないけど、僕は個人的にそういう評価をしてるって事ですね。
あとはナルシストみたいな資質は多分持ってますね。
分かる人は分かると思うんだけど、世間とのズレも結構気にするんですよ。
調和ってのを僕は結構大事にするんです。
なので、ナルシストと思われないように振る舞えると言うか、その辺うまくバランスをとってるのかなと自分でも思ってるんですよね。
でも、本質は多分ナルシストだと思います。中二病だし。
あとは、ズレた息子がいるってこと。そしてそれを別に良しとしているということも少数派なのかなと思ってて、息子のズレを言い出すとちょっと尺が全然足りないんだけど、例えば息子は僕のことを「幸平君」って言うんですよ。
おかしいでしょう。
父親を下の名前で、しかも君付けで呼ぶっておかしいんですよ。
僕も言いますよ。「父親を君付けで、下の名前で呼ぶな」って言います。
それを受けて息子も「ごめん、ごめん」って言います。
でも、気付いたらまた元に戻ってます。
それが自然すぎるからこっちも普通に幸平君と言われて「え?なに?」って言い返しちゃうんですけど、気づいた時は「親を名前で呼ぶな」って言うんだけど、心のどこかで「まあいっかな」と思ってる自分もいます。
あと、ちなみに母親のことは「ゆうこ」とか「ゆうこちゃん」とか呼んでます。
普段どう言ってるかちょっと分かんないんだけど、「こいつも相当ズレてるな」と思いながら、でもそれは特に気にしてないというか、まぁどっかでよしとしている自分がいて・・・そんな感じですかね。
もう言い出せばキリがないのだけど、こんな風に自分が一般の感覚とズレてるなって感じる部分をどんどん洗い出してみるんですよ。
良い悪い関係なく、ズレてる部分をとりあえず洗い出してみましょう。
その中で磨けば光るものも出てくるし、もうすでに光ってるものも出てくるし、あるいは「これは駄目だな」と。これは悪要員にしかならないなっていうことも出てくる。
そうやって1回精査することがすごく重要だなと思ってます。
何にせよ「ズレ」が成功要因になり得るという話です。
というか、価値はどこにあるかって考えた時に「人との違いが価値」なんですよ。
ズレが価値なんですよ。
そこにしか突破口ってないんですね。
一般的な感覚とか普通っていう概念に迎合していても、そこに価値は生まれないじゃないですか。だって普通なんだから。
普通じゃないもの、普通じゃない結果に人は価値を感じるわけだから、そこを全面に出していかないとか処分時間を制する者にはなれないわけですよね。
これはサラッと話してますけど、相当重要な話ですよ。
時間も長くなってきたのでこれで終わりにしますけど、この質問は1日か2日かあるいは連休の間すべての時間を取って、洗い出して精査する。
これをやるぐらいの価値はありますよ。
ちなみに今思ったのが、息子が父親のことを名前で呼ぶ。
それに対して「親を名前で呼ぶのはやめなさい」って指導する僕って、かなり人間的じゃないですか。
常識的じゃないですか。たぶんこういうことだと思うんですよ。
非常識な部分。それが超人的だったり変態的だったりするんだけど、それとセットで人間的・常識的側面も見せていく。
その根幹を支えるものは機能的・実用的な話。このバランスですよね。
これをちょっと目指してみてくださいということで話は以上です。
ではまた。
ありがとうございました。