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#234『嫌いな人の余命が後1ヶ月だとわかったら』

2020-01-06 Mon.
どうも、Aunこと西祖です。 新年2回目のHQ-MINDですが、新年早々この手の話をするのは非常に気が引けるのですが、僕にとって大きな出来事だったので最初にこの話をシェアさせていただきます。 何かというと、1月3日に僕の大事な知人の訃報が舞い込んできまして、ここ数日バタバタしていました。 昨日が葬儀で一昨日がお通夜だったんですけど、昨日は仕事もなにも出来ずにずっとそのことを考えていた1日でした。今も気持ちの整理がついてないんですけど、かなりお世話になった人で。特に息子のはるとがかなりお世話になりました。 元嫁のママ友さんで心理カウンセラーをされているような方で、はるとが学校に行けなくなった時も個人的に話を聞いてくれたり、相談に乗ってくれたり、週2〜3回家に来て面倒を見にきてくれたり、あるいはフリースクールって話になった時に 「もしいいスクールが見つからなかった時は私がフリースクールを立ち上げるよ、夢でもあったから。」 ってことまで言ってくださったりして、そういうことだったらスクールを立ち上げましょうかという話にもなったりして。 結局良いフリースクールが見つかったのでその話は保留になったのですが、それくらいの話になるくらい凄く親しくしてもらっていた方でした。 僕も個人的に子育てについてだったりだとか、色んな相談を何度もさせてもらって、いつか恩返ししないとなっていうふうに思っていた矢先の知らせだったわけです。 っでガンだということを昨年の夏ぐらいに知って、結構難しい場所に出来たガンだということは聞いていたんですよ。 それから会いに行こうと思いつつも、向こうの都合も僕の都合もなかなか合わず・・・こんなに進行が早いもんだと思っていませんでした。 直接お礼の言葉を言えなかったっていうことも凄く後悔として残っていますし、お世話になりっぱなしでなにも出来なかったっていうことがかなり悔やまれますね。 彼女の死というものが僕にとって大きなもので・・・まあ僕もこの歳ですからそれなりに人の死を見てきているわけですけども、大事な人の死に直面する度に色々考えさせられるわけです。 考えさせられるんだけど、考えるだけで終わっていたらそれは良い事ではなくて、忘れないようにする努力をしないといけないなと思います。 自分の中に風化させないように。その人が残してくれたものを自分の中の教訓としてしっかりと忘れないようにしなきゃいけません。 悲しみっていうのは薄まっていくのは当たり前のことかもしれないけど、そこから得た学びが薄まっていくようでは僕はダメだと思っているので、忘れない努力っていうものは必要だなと思いました。 どんなことを学んだかとか、そんな気持ちでいるかとか、それはかなり個人的な話なのでここでシェアする事でもないなと思いましたけども、今こういう状況ですよって事を最初に知らせておきました。 それを踏まえてという話ではないのですが、正月1日に昔から付き合いのある地元の友達と色々話をしているときに悩み相談っていう話ではないんですが、そいつはおじいちゃんが大嫌いだと。 僕らくらいの歳のおじいちゃんなので結構な高齢者なのですが、まだまだ元気で、それでいて現役なおじいちゃんです。 なので考え方は当然古いし、頑固で偏屈で押し付けがましくて、会えば嫌味ばかりで否定しかしないと。 祖母にはずっと偉そうに振る舞っていて(祖母はなくなってしまったらしいんですが)、亡くなるその瞬間まで顎でこき使うような人だったと。 自分の非は一切認めようとしない、そんな祖父が相当嫌いで仕方ない、本気で早く死んでしまえばいいという気持ちがあると言っていました。で、嫌うのにもエネルギーがいるっていうんですよね。 死ねばいいのにって思うぐらい嫌うことは物凄いエネルギーを使うと彼は言っていましたね。 だからそんなふうにも思いたくないし、そんなふうに思っている自分もあまり好きじゃないと。どう向き合っていけばいいのかってことを今はずっと考えてるんだっていう話を聞いたんですよ。 そこで僕が一つ提案したのが、人を嫌いになったときに考えるようにしていることがあります。どういうことかっていうと、 「もしその人の余命が1ヶ月だったとしたら」 って考えてみるわけです。1ヶ月じゃなくても、2ヶ月でも3ヶ月でも半年でもいいんだけど、すぐそこまで死が迫っていると、それはもう変えられないことだとわかったとしたらということを考えてみます。 そうしたときに本当に嫌いな気持ちっていうのが変わらず嫌いなままなのか、あるいは嫌いな気持ちが変化するのか、その変化っていう客観的に見るのが大事だなって思っていて、それが答えというか解決のヒントになるんじゃないかと僕は昔から考えているわけですね。 僕の話をさせてもらうと、祖母のことが一つ思い浮かべられます。 母方のお母さんなんだけれど、凄く大嫌いだったんですね。どのくらい大嫌いだったかっていうと、早く死なねーかなって子供心ながらにいつも考えてました。 一緒に住んでいたんですが、それはそれはとんでもないばーさんで友達を連れてくると嫌味しか言わないんです。また連れてきて足が汚いだの、足洗って家に入れだの、僕の友達に対してそれをいうんですよ。 それで二階で少し騒がしくしていると、ばーさんが二階に上がってきて「お前たちうるさいぞ」と言ってきて扉をベシッて閉めて去っていくとか、そんなばーさんだったわけですね(苦笑) 昔の炭鉱で働いていたような人なのでかなり男勝りなんですよ。酒飲んで酔っぱらうと自分のことを一人称で俺っていうような人でした。 そんなばーさんが大っ嫌いで友達を連れてくるのも恥ずかしいし、いつも喧嘩ばかりしていましたね。 たまに優しいときがあったりとかして嫌いな気持ちがだんだん薄まってはいくんですけど、でもやっぱり話してちょっと関わるとやっぱり嫌いだって思って早く死なねーかなって気持ちが振り返してきたりとかね。 そんなばーちゃんももう10年前くらいに亡くなってしまったんですけど、その時はもう時期死ぬぞっていうときになってばーちゃんのベットで寝てる姿を見たりとかすると、嫌いだって気持ちや早く死ねばいいのにって思っていた気持ちがすっかりなくなっちゃって、どうやって安らかに眠ってもらえるか、清らかに最後遂げてもらえるかってことを考え出しました。 今まで自分が嫌いになった理由っていうのを考えてみたんですけど、その理由一つ一つがちっぽけに思えてきて、死を直前に控えたその人を見たときにその人を嫌っていた理由がちっぽけに思えてきたんですよ。 あんなことがあったな、でももういいよって。 この人は人生全うして今もう最期を迎えようとしている。それに比べたらちっぽけだって思えるようになったんです。実際にもう時期、死にゆく人をみてね・・・ そこで思ったのが、最初に言った「もしその人が余命1ヶ月だったとしたら」と考えてみることは凄く意味があることだと思うし、価値があることだと思いました。 嫌いっていう感情から目を背けることはないと僕は思います、嫌いなもんは嫌いなんだから。 ただ、嫌いという一方からしかみていないと大事なことが見えないということにも気づきました。嫌いという感情とはまた別の方向から見てみる、フラットな視点でその感情と向き合ってみる、観察してみるってことはとても意味があるなと。 どんな意味があるのかと言うとはっきりとはわからないけども、そこに自分の感情的な成長というか進化というか、自分の中の大きな気づきというものを得られたような気がします。 おばあちゃんもそうだし、親父のことですね。 僕は親父が好きじゃないです。いまだにお袋からいろんな愚痴を聞かされます。お袋と一緒にいるときに、週一回お袋が掃除しにきているんですけど、そこに親父もたまに連れてこられたりしてね。窓磨いてますよウチの部屋のね。 ただちょっと掃除機かけて窓を磨くと、すぐ酒を飲み始めて犬と戯れますよ。 でネットフリックスを見て酔っ払って余計なことを言って帰っていくというこんな親父です。まあ昔からこんな感じです、昔からこのクソ親父がって思っています。思っているんだけど、心に余裕があるときにこう思うわけですね。 もし親父があと1ヶ月の命だったとしたらこの気持ちはどう変わるんだろうかって思ったときに、ちょっと優しくなれるんですよね。・・・優しくっていうのはちょっと違うのかもしれないけど、かなりフラットな感情になれるんです。 ただ一方的に嫌いだ、こういう要素があるから嫌いだってだけ見続けるっていうのは、非常に僕はもったいないと感じていますね。 だって違う視点から見るとこんな気づきや新しい感情の発見があるってことを知っています。なのでゲーム感覚でいいので、もし嫌いな人がいるとしたらちょっとこの視点を入れてあげるとこれまでにないような違った新しい気づきがあるんじゃないかなって思います。 ついでに話しておくと、自分の中で関わるべき人と関わらない方がいい人、付き合わないと決めるべき人の区別っていうのは生きていく中で避けられない選択が出てくることがあるかと思います。そういうときはやっぱり同じようにその人の余命があと1ヶ月だとわかったらというふうに考えてみるわけです。 それを考えた上でそれでもその人に対する気持ちが動かないのであれば、「いやいやそれでもどうでもいいよ」「いやいや凄く嬉しいよ、死んでくれた方が嬉しい」ぐらいに思うようだったらその人と関わらない方がいいですね。 そのぐらいなんですね、その人に対する気持ちっていうのが。 あなたにも身近に嫌いな人、嫌いな有名人がいると思うんですけど、よくインスタとか見てると有名人のインスタの投稿にアンチがウラアカ使ってアンチコメント、心無いようなコメントをよく見たりしますけど、それって凄くエネルギーを使うし時間の無駄だとも思います。 関わるべきじゃないと思うときもあるし、そこまでいったら関わるべきじゃないですよね。 それって自分自身にとってプラスにならないから。 だけどこの人の余命があと1ヶ月だとわかったと考えた上で、もし気持ちに変化があるんだったらその人と関わるっていうことはまだまだ自分にとって意味がある、プラスがある、成長がある、気づきがあるっていうふうに思える。 だからまだ関わってもいいんじゃないかっていう判断の材料になります。 ご縁があった全ての人と関わらないといけないと思う人もいるし、簡単に人を切ったりとかそういうことをやってはいけないと思う人もいるかもしれないけど、縁があった人全てと関わっていたら、時間が無限だったらいいのかもしれないけど時間は有限だしどうしても合う合わないってあるからね。 その判断材料っていうのはどっかで見つけて決断しなきゃいけない時っていうのはあるわけですよ。 だからその決断のヒントとしてこの考え方っていうのを採用してみてはどうでしょうかということですね。 ということで新年早々重たいネタを扱いましたけど、人の死に直面するということは生きている限り避けられないことだし、自分自身もいつかそうなるってことを考えたらそれをきっかけに色々考えるってことに大きな意味があることだと思うし、 大事な人の死というのは大きな悲しみに包まれますけどそれと同じくらいの学びもあると思いますので、僕はそう言った部分も大事にしていきたいなというふうに思ってます。 では今回は以上です。 ありがとうございました。

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